いわゆる「神秘体験」をしてしまった。

私が言いたいただ一つのこと、それは「癒される心」の問題です。

失恋やら何やら、下らない悩みに圧倒されて困っていたとき、なんとも不思議な経験をしました。


いや、不思議な経験と云うのは、世の中には掃いて捨てるほどあるので、実は「陳腐な経験」でしか無いのかも知れません。
とにかく、心理学者ユングが「能動的想像力」と呼び、コリン・ウィルソンが「至高体験」なんぞと名付けた、めくるめくヴィジョン体験です。


ナマイキにも、青春の挫折に苦悩していた最中に、突如、神秘的な白日夢が訪れました。
まさか、自分にそんな経験がやってくるとは、予想もしていなかったし、心の中では「ユングやウィルソンなんて、所詮イカサマなオカルト・キ○ガイだ」と思っていたので、「ヴィジョン」なんてものは信じていませんでした。


オカルト、錬金術、神話的イメージと、一通りのフルコースの幻覚を堪能しました(ヤバイ薬じゃありません)。
で、ヴィジョンを得た直後から、恥ずかしいほどに「心が満たされ」てしまい、困りました。
だって、そうじゃありませんか。カッコつけるけど、私の信念は「肥えた豚で安穏と過ごすよりも、飢えた狼であれ!」ですから。
いかにもガキっぽい、60年代気質、寺山修司のコピーみたいな安物モットーですけれど、人間のもっとも個人的な心の中身なんて、所詮は甘ったるい、腐ったロマンスが詰まっているのですから、仕方ありません。
つまり、「神秘的なヴィジョン」などと云う、間抜けなオカルト・マニアの専売特許なんぞに、自分の心が「満たされ」てしまう、それが許せないのです。


ヴィジョンはユングの著作にあるような具合で、原型的な女神やらなにやらが登場して、美しかったです。
でも、どこか「テレビゲームのキャラクタ」みたいな安っぽさがあって、インチキ臭いのです。
「神秘」だとか「真実」だとか「癒し」だとか、こっちが頼みもしないのに、勝手なヴィジョン体験を押し売りされても、「あー凄い、素晴らしい、やっぱり神様は存在するんだ〜!」
なんて具合に、信じるわけね〜〜〜だろ、クソやろーーーー!と叫びたい訳です。


そんな下らない神秘体験とやらに圧倒され、「自然は美しい」だの「人生の目的」だのを悟ってしまうほど、恥知らずにはなれません。
「肥えた豚」と云うのは、心理学の似非療法だとか、神秘体験とか、恋愛なんかで「癒され」てしまう、粗悪品だと私は思います。

人間である以上、矢張りもっと孤高でありたいと、カッコつけていたいのです。それが強がりでも、自己満足でも構いません。
自分さえ満足させられない人が、他人を癒そうとして共に心中してしまう愚行に比べたら、「飢えた狼」を夢見続けて、このしょ〜もない日常のドブ板を覗き続けて生きる方が、ずっと健全です。

少なくとも、私にとって、新興宗教のゴミ溜みたいな、イカサマな神様(とか宇宙原理とか)なんかが管理する神秘体験よりも、最低の存在である変調人間達の方が、ずっと現実味のある存在です。
煌めく天使の羽ばたきよりも、重力の底で足掻く精神薄弱アヒル少女の羽ばたきを眺めていたいのです。
奇形、異形に対する愛...なんて、気取ったものではありません。

私は、変調人間が嫌いです。興味を持つことと、好意を抱くことは、全くの別問題ですから。
観念論では無く、現実に変調人間と対峙した時に感じることは「ああ、うんざりだ」の一言に尽きます。
実際、変調人間は美化されるべきではありません。

「面白さ」や「興味深さ」を感じても、変調人間とのつき合いは「腐臭を放つ歪んだ心」との交流に他なりません。
では何故、変調現実、変調人間に拘るのか?
いくら「飢えた狼」を気取ってみたところで、ちょっと油断するとスグに
「癒し」「自分探し」「自己実現」等々の、甘美で吐き気のする幻想に侵食さてしまう、意志薄弱な自分がいます。

人殺しや強姦を何とも思わない外道でも、幼い頃の思い出や、初恋の少女への永遠の憬慕などの、安っぽい感傷に心を支配されていることが屡々です。
人間は、そう云う「ファンタジー」から逃れられないと、私は考えています。

別に逃れる必要もないでしょう。ただ、意志を持つ人間である以上、「もっと違う価値観」を求め、ドブ板を剥がして、その腐敗の中に新たな何かを見つけたい...とまあ、これまた陳腐な希望ですが、そのくらいの幻想を追いかけて、しょ〜もない人生を、下らないままに生きて行きたいってことです。

乱打乱文、支離滅裂のまま、結論もなく終わり。